現代アートとは何か?芸術と似て非なるもの—あいちトリエンナーレ問題を考える前に

ポロック number-28

あいちトリエンナーレは、愛知県で3年に1度開かれる国内最大規模の現代アートの祭典、国際芸術祭です。

2019年8月に開催された「あいちトリエンナーレ2019」では、過去に公立の美術館で断られた作品・作者ばかりが集められた現代美術展「表現の不自由展・その後」が開かれ、物議をかもしました。天皇の肖像を燃やして踏みにじる映像作品をはじめ、韓国人による慰安婦関連の作品が複数出品されたことから、抗議の電話が殺到しました。脅迫行為もあったことから中止が決まり、最近では大村愛知県知事のリコール運動にまで発展し、議論は続いています。

私はあいちトリエンナーレについて言いたいことはたくさんありますが、今回それを書く前に、もっと根本的な問題について検証してみたいと思います。

みなさん、「天皇を燃やすのは芸術じゃない! 慰安婦像は芸術じゃない!」と言いつつ、「表現の自由を守れ! 芸術はどこまでも自由なんだ!」 と言われると、「え、それはそうだけど・・・」ってなることありませんか?

この問題について議論する場合、表現の自由はどこまで許されるのか?これらは芸術なのか?そして現代アートってなんなのか?という疑問を乗り越えない限り、個々の作品について政治的な批判をしたところで埒が明かないと思うのです。

美術関係者でも理解していない、表現、芸術、アートの歴史と本質について、むずかしい横文字は使わず、わかりやすく説明してみたいと思います。ぜひ最後までお読みください。

表現とは何か?芸術との関係は?

まず「表現」とはなんでしょうか?

辞書には「自分の感情や思想・意志などを形として残したり、態度や言語で示したりすることである」と書かれています。実際、表現ってかなり幅が広いですよね。

作品にしなくても、意見や考えを書いた文章、このブログなんかも表現に含まれるでしょう。感情を伝えるメール、意志を伝える電話、ちょっとした会話でさえも表現と言えるのではないでしょうか。

では、そのような表現すべてがアート、美術、芸術というようなものになるのでしょうか?

それは(本来)なりません。

さらに、表現は無制限に「自由」ではありません。その国の憲法、法律、その地方の条例の範囲で自由というだけです。表現する場所で生活する人の慣習や道徳観、倫理というものにも影響を受けるでしょう。

例えば、ものすごく腹が立つからといって怒りを表現する為に他人をののしったり、暴言を吐いたり、殴ったりしてはいけませんよね。愛を表現する為にしつこくメールや電話をするのも許されません。中国のような共産主義の国ではもっと表現の自由は制限されるでしょう。

また表現は非常に幅が広いので、その一言一句すべてを法律で縛れるものではありません。ですから法律に触れなければギリギリまで許される!というものでもないのです。どうしても常識や道徳観という曖昧な要素が入ります。

そして、その制限のある表現という枠の内側に美術や芸術は存在します。

では芸術というのは何でしょうか?

それは人間の内面や感情を表現する活動の中で、ある様式の範囲で技術によって作られたものです。例えば文芸・絵画・彫刻・音楽・演劇などの表現様式によって美を創作・表現する活動です。

そして本来「芸術」は他人の評価によって決まります。ですから、厳密に言うと「私は美術家です」「私は音楽家です」と言うことはできますが「私は芸術家です」ということは言えません。

また美術家や音楽家、舞踏家などが「職業」を表す言葉としても使われる一方、芸術家だけは職業とは関係していません。芸術家は自称できず、常に他者からの評価によって成立します。芸術についての定義は長くなるので、また別の機会に書きます。

さて、上の説明を見てこんな風に感じる人がいると思います。違う!芸術はそんな狭い範囲のものじゃない!あらゆる表現が芸術になるんだ!今はいろんなアーティストがいるじゃないか!

この考えは現代アートの台頭による影響です。

そのような人は、現代アートが「現代」「アート」だと勘違いしているのです。現代アートは本来、芸術の一分野ではありません。現代アートは、その発生からして芸術ではありえないのです。

その理由について説明していきましょう。

現代アートとは何か?発生と系譜

今よく見かける現代アートというのはコンセプチュアル・アートといわれるものです。このコンセプチュアル・アートは、アイデアやコンセプトがもっとも重要であるという新しい概念芸術として生まれました。そしてこれはマルセル・デュシャン(1887-1968)という人物から始まったといっても過言ではありません。

当時デュシャンは、美術界が閉鎖的な権威主義に陥っていることに不満を感じていました。そして従来の美術や芸術を批判する為に1917年「泉(噴水)」というタイトルで陶器の便器を美術作品として出展しました。自分で作った作品ではなく既製品を展示することで、今までにない観念としての芸術を創出したと言われています。

自分が選んだ既製品を展示する行為を新しい芸術と定義することは、従来の芸術から意味を剥奪し「みるものが芸術をつくる」という考え方を生み出しました。それは、まさに芸術を破壊する為に、美術という形をとって「表現の限界」に挑戦する行為であったと言えます(ダダイスム反芸術運動)。アイデアさえあれば、あらゆる表現が芸術になりうるという概念が生まれたのです。

これは反芸術、反定義、美の否定、物質依存の否定、言語中心というような概念です。

このデュシャンの作品は今でも日本の美術関係者によって絶賛されています。現代アート界の芸術利権を守る為に、ここは譲れない一線です。

しかし私は、現代アートの祖であるコンセプチュアル・アートは、デュシャンで始まり、デュシャンで終わっていると思います。と言うのも、あらゆる表現が芸術になるという概念が、論理的に破綻しているからです。それは芸術という枠組みが存在しないと言っているのと同じだからです。そして「現代アート」は「現代」と言いながら、今もこの100年も前のデュシャンの観念芸術をひたすら模し、繰り返しています。ネーミングとは裏腹に古くさい手法が多いのは、100年前の思考のまま止まっているからです。

現代アーティストは決まって「自由に見ればいい、あらゆる見方が可能だ、新しい気づきに繋げてほしい」このような言い回しをします。であるならば、私たちは、そのへんの石ころや落ちているゴミを眺めていても同じではないでしょうか?私たちは何を見ても自由に感じ、考えているからです。技術を磨き、自己の内面を正確に映しとろうとする芸術的行為とは対照的であるのは明白です。

現代アートは、芸術を否定し、破壊する存在として生まれました。これを知ると「現代アート美術展」「現代アート芸術祭」などというネーミングが矛盾に満ちていることが分かると思います。

私は、芸術を否定し、あらゆる表現が芸術であると考えるのであれば、美術館でやる必要はなく、美術家、芸術家、アーティストというような肩書きも捨てるべきだと思っています。デュシャン自身も、人生の後半はほとんど作品を制作発表しなくなりました。美術の枠を外そうとするのであれば、自分がそこに閉じこもるべきではないでしょう。

私は現代アートを全否定しているわけではありません。現代アートは芸術の分野ではないという事実を言っているだけです。

現代アートは美術や芸術ではなく、イベント・遊び・思考実験・政治的活動という方面で利用価値があるでしょう。美術展、芸術祭、アートプロジェクトではなくても、別に単なる「イベント」として開催すればいいと思います。
アーティストではなく「イベンター」でいいのではないでしょうか?なにか問題あるでしょうか?

現代アートを普及させたのはCIAだった?

さて、もう少し現代アートの系譜を追ってみましょう。

実は第一人者のデュシャンですが、インタビューを読むと彼自身に新しい芸術に対する強い野心があったとは思えない節があります。彼の作品は新しい概念を生み出す為に利用された面があります。彼の作品に意味づけし、上記のような概念芸術として発展させたのは後の人間です。実際、1917年に発表された「泉(噴水)」から30年以上経ってからコンセプチュアル・アートは全盛期を迎えます。

なぜコンセプチュアル・アートが1950年代から注目されたのか、そして反芸術でありながら「新しい芸術」としてここまで世間に浸透したのか?それには意外な理由があります。これはあまり知られていないことですが、この芸術と似て非なるものは、アメリカ合衆国CIAの支援の対象だったと言われています。(※1)

第二次世界大戦後、アメリカはソ連と冷戦関係にありました。
そんな中、1947年CIAが設立されると同時に「新しい美術をプロパガンダ兵器として利用する」ことが決定されました。え、美術が兵器になるの?と思うかもしれませんが、当時、まだ新しい国であったアメリカは文化的に脆弱で、「アメリカは文化的荒れ地」と揶揄されるほどでした。ソ連の社会主義リアリズム絵画、プロパガンダ芸術に打ち勝つ為には、新しい概念、自由の国アメリカを象徴する新しくて力強い芸術が必要でした。

しかし当時のアメリカでは、抽象絵画や前衛芸術、ましてやコンセプチュアル・アートなどは非常に嫌われており、とても主流になることはできませんでした。当時こっそり国のお金で開催された自由と多様性を謳った「Advancing American Art」展は「なんて税金のムダ遣いだ!」とアメリカ国民から大バッシングを受け、芸術とは認めてもらえませんでした。近代美術は、市民の評価が高まって徐々に浸透していったわけではなかったのです。

そこでCIAは、800以上の新聞や雑誌公共機関に影響を及ぼす宣伝機関(※2)を作りました。人々が手に取る媒体に掲載しまくることで、人々の認識を変えていきました。解放された知的自由、あらゆる表現が芸術になりうるのだ!という新しい概念を広める一方で、従来の芸術や、ソビエトの社会主義リアリズムのような芸術は堅苦しい古い考え方だと宣伝しました。

(※2)プロパガンダ資産目録機関:Propaganda Assets Inventory

これは美術界でもほとんど知られていない事実で、完全に秘密裏に行われアーティストにも知らされていませんでした。CIAは、美術館や大富豪と組んで(名前を使って)、莫大な資金をなんと20年以上投入し続けました。

このような裏の事情によって、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコのような抽象絵画や前衛芸術、ジョセフ・コスースのようなコンセプチュアル・アート、さらにはジョン・ケージ(※3)、アンディー・ウォーホルのような有名ポップアーティストを輩出する流れが作られていきます。

(※3)ジョン・ケージ:前衛芸術としてコンサート会場を4分33秒間無音にし、新しい音楽と称した。

» 参考:Modern art was CIA ‘weapon’ | INDEPENDENT
» 参考:Was modern art a weapon of the CIA? | BBC
» 参考:抽象絵画などの近代美術はかつてCIAの「兵器」だった | Gigazine

(※1) CIAの関与の信憑性について:BBCの記事より
1967年、ニューヨーク・タイムズ紙は、リベラルな反共産主義雑誌「エンカウンター」が、間接的にCIAの資金提供を受けていたことを明らかにした。
1973年、美術評論家のマックス・コズロフはArtforum誌の記事の中で、抽象表現主義は「善意のプロパガンダの一形態」であり、戦後のアメリカ政府の政治的イデオロギーと同調していると主張した。その後、CIAが抽象表現主義を何らかの形で操っていたと主張する多くのエッセイ、記事、書籍が出版されている。
1999年、イギリスのジャーナリストで歴史家のフランシス・ストナー・サンダースが、CIAと「文化的冷戦」についての本を出版し、その中で「抽象表現主義は冷戦の武器として配備されていた」と主張し、元CIAエージェントの発言を元にその具体的な例をまとめた。(上記INDEPENDENTのリンクを参考)
※ ものしらずの見解:CIAの関与について日本では全く知られていないが、いずれの情報も海外大手メディアが古くから取り上げており(INDEPENDENTはそれなりに硬派なメディア)信憑性は高いと考える。

現代日本における現代アート

現代アートが、米ソの冷戦という社会的事情の中で、アメリカで生み出された背景がご理解いただけたかと思います。しかし何の関係もない日本人が現代アートをありがたく取り込み、主流の芸術と捉えるのはちょっと違うと思いませんか?

そして共産主義に対抗して支援されてきた「現代アート」ですが、大変皮肉なことに現在では共産主義者の道具となってしまっています。従来の芸術が内包する文化や宗教を否定し、破壊することで世界の人々を分断していく仕掛けとして多いに利用されています。

共産主義者は社会を個に分断することで支配しやすい思想を根付かせます。今の中国共産党が、自国の村々を破壊し、新しい地区に移住させる政策に力を入れているのも同じ理由でしょう。自然や神への畏怖や感動を高い技術で表現してきた絵画は過去のものとされ、自称現代アーティスト達は、自分がであるかのように制限のない自由を求めるようになっていると感じます。

現代アートは、まるで主流の芸術のような顔をして表現の限界に挑み続けています。表現の限界に挑むことが使命とも言えます。そしてコンセプトを形にして発表するという特質上、日本でも政治的なイデオロギーをテーマにしたものや、国家や既存の枠組みを越えようとする活動がさかんに行われています。

私は、現代アートの名の下に、動物を虐待するような悪質な作品も何度も目にしたことがあります。しかし、日本人はアート芸術という言葉に弱く、猟奇的な行為すらも「これは芸術だ」「これは個人の表現の自由なんだ!」と言われると途端に口を噤んできた経緯があります。

ですから今回あいちトリエンナーレで一般の人が現代アートへの批判的意見を持ち、1万件以上の抗議にまで至ったことが、今後の流れを変える良いきっかけになってほしいと思います。鑑賞者も自分の感情や意見を表現するべきです。

公共的意義がないと主張するのも、批判を電話で表現するのもメールで表現するのも現代アートの範疇です。あらゆる表現が現代アートになりうるのですから、われわれも自由な表現者、現代アーティストとして強く表現していきましょう。

図解によるまとめ



私たちは、常に「現代のアート」であるかのような振る舞いに騙され、あくまで芸術の一分野として正統な美術・芸術の潮流であると勘違いしています。

デュシャンから始まった反芸術の要素が強い現代アートは、CIAの莫大な資金によって膨らみ、古い時代の「現代」と言うネーミングを纏ったまま、今や正統な芸術を浸食し本流になろうとしています。

以上、寺島てらが長年の考察と個人的見解を元にまとめました。表現と芸術、現代アートの位置づけがお分かりいただけたでしょうか?
(大まかな概略を伝える為に、詳細な説明や出来事をかなり省いております。ご了承ください。)

また時間に余裕があれば、あいちトリエンナーレ自体の検証、各作品について批評を記事にしたいと思います。

※リンク・引用歓迎。テキストの無断転載はご遠慮ください。

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