差別とは何か?—不寛容な平等精神が生み出す不自由な世界

2020年6月現在、アメリカで黒人差別に対する抗議デモ、暴動が拡大しています。デモの真相についてはともかく、このニュースをきっかけに差別について考える機会が増えているのではないでしょうか。日本でも昨今ヘイトポリコレという言葉を頻繁に聞くようになりました。ヘイト(hate)は攻撃的な憎悪、差別という意味で使われます。ポリティカル・コレクトネス(political correctness)とは、言語表現や創作物、社会制度などからあらゆる差別をなくすべきだという考え方のことです。ポリコレが行き過ぎて窮屈だ…なんて言葉をよく聞きますね。

今日は政治的な話ではなく、根本的に差別ってなんなのか?をじっくり考えてみたいと思います。個人的な意見なので、考えるきっかけ程度としてお読みいただければ幸いです。

違いに価値観を持ち込むと差別が生まれる

差別の定義とは?
ある「違い」(属性)によって正当な理由なく冷遇し不利益を生じさせる行為。(もしくは特別優遇する行為)

まずポイントになるのは、差別は「違い」自体に繋がっているのではなく、「違い」に価値基準を持込み、人間としての優劣をつける、その考え方や行動に繋がっているという点です。

このポイントがずれると「違い」があること自体が差別に繋がるという間違った考え方になってしまう場合があります。

例えば最近、運動会で走りが速い子がほめてもらえないという話。足が遅い子が可哀想だから、みんなで一緒にゴールしよう。という考え方です。

足が速い子は、相対的に速く走れるというすばらしい違いを持っているわけですが、これは人間としての優劣とは全く関係がありません。このような「違い」に速度以外の価値基準を持込み差別という言葉を使うことで逆に差別意識は助長されます。子供たちは他人との違いを発見する機会を失うだけでなく、足が遅いということは差別してはいけない「劣等なこと」だと考えるようになってしまうのではないでしょうか。

また、美人コンテストが差別に繋がるからやめろという批判についても考えてみましょう。美人の人を選ぶなんて顔が不細工な人が可哀想。差別になるからやめるべきだ、だという考え方です。
美人だと言われる整った顔立ちの人は、顔面において相対的に美しいというすばらしい違いを持っているわけですが、人間としての優劣とは関係がありません。ここでもまた差別という言葉によって差別が助長され、この指摘を受けて美人コンテストをやめることで、人々は顔が不細工なことは差別してはいけない「劣等なこと」だという差別心を持ってしまうかもしれません。

美人と逆の芸能人のブサイクコンテストも同じです。つまり顔の造作で差別すべきではないから別にやってもいいのではないでしょうか。

しかもこれらのコンテストは、芸能界あるいは自分で参加した人が対象である場合がほとんどで、「私の違いをみてほしい」という人の為に開催されている限り、部外者が社会的問題だ!と抗議するのは他人の精神的自由を侵害することになりかねません。

「顔の評価が人間性の評価に繋がりかねない」と強く主張する人こそが、顔を人で判断しかねない差別の心を持った人だと言えます。肌の色コンテストをしようが、鼻が高いコンテストをしようが、胸が大きいコンテストをしようが、やりたい人はやればいいのであって、差別とは関係ないのです。

足が遅い子供にも美人コンテストに出られなかった人にもブサイク1位の芸人にも、「可哀想」という言葉ではなく「まぁ人にはそういう違いもあるよね」と言う方がずっといい社会になると思います。

差別をなくすにはどうしたらいいか?

差別をなくそうと考えるのであればすべての人がすべての違いを受け入れるしかないのではないでしょうか。

差別をなくすために平等にするべきだ!という言葉をきくと「違い」が差別を生んでいるように感じます。しかし上でも言ったとおり違い自体は事実であり、差別ではありません。人間は同じ人間は一人もいないわけで、違いにあふれています。

私たちは平等という概念を「違いがない状態」と考えがちですが、実際には「みんな平等に不平等な状態」ということではないでしょうか。

肌の色、身体的特徴、性別、能力、人種・民族・宗教、言語、習慣

違うことが事実であるなら、全部受け入れて「私とあなたは違うよね」と言えるのがいいと思います。この「違う」ということが「言える」ということが大切です。

違いをそのまま受け入れることは簡単なようで難しいことです。
人間は自分と他人の間に「違い」を見つけると優劣や善悪をつけたくなります。劣っている方、間違っている方が、優れた方、正しい方に合わせるべきだと考えがちです。でも実際にはその違い自体をなくしたり変えたりすることは難しく、変えられないことがほとんどです。

こういった自分と他人の違いに優劣をつける感情は、ある時は優等コンプレックスになり、ある時は劣等コンプレックスになり、偉そうになったり卑屈になったりする原因になります。他人を変えようとしたり自分を変えたりして違いをなくそうと必死になり不幸の連鎖が始まるのです。多少のコンプレックスはモチベーションになるでしょうが、違いを許せなかったり受け入れられなくなると人間は不幸になります。

ある違いがあっても、隠したり「同じだ」と思おうとせずに「あー、違うね」と受け入れてしまう方がいいのです。それが好きだとか嫌いだとか言うのも自由です。しかし、それをある価値基準と結びつけ、「そんな違いは認められない!」とか「違うということを言うな!」と言い出すと差別に繋がります。それを言う人間の中には必ず差別心が潜んでいると思います。そしてその差別心はその人自身のコンプレックスにもなっている場合が多いのです。

自分が自由でいる、自分の意見を主張し、自分の好みを主張し、自分を肯定して生きていく為には他人の意見も好みもあらゆる自由を尊重するしかありません。間違った平等を強制し、違いをなくそうとしないこと。寛容こそが差別のない自由な社会の要だと思います。

私はこの考え方こそが「リベラル」(自由・寛容主義)と呼ばれるものだと考えています。人間は絶対こうあるべきだ!と叫ぶ不寛容な人がリベラルを自称するのは矛盾しているのではないでしょうか。

また最後に、難しい問題として「違い」に優劣をつける感情が生理的な反応である場合も多いという点に触れておきたいと思います。理想としてはすべての人が誰に対しても同じ対応をすることがベストかもしれませんが、やはり生理的な反応というものは人間に備わった異性への好みや相性といった変えられない要素でもあり、個性や多様性にも繋がる要素でもあります。

どうしても好きなタイプ、苦手なタイプというのはいますよね。恋人を顔で選ぶ人もいれば、体型で選ぶ人もいる。いや、内面で選ぶべきだ!と言うのは逆に個性や多様性の否定に繋がりかねません。

苦手なタイプだから暴力を振るうとか冷遇をするということは許されませんが、あまり自分にも他人にも正当性や理性的な態度を求めすぎると心のあり様まで強制することになりかねず、生きづらい社会になってしまいます。結局、人間である限り差別のようなものは完全になくならないということも受け入れるしかないのではないでしょうか。

まとめ、差別と日本人

  • 違いは人間の多様性。違いは差別と関係ない。
  • ある価値観で違いを評価することが差別に繋がる。
  • 違いはなくせない、排除しない。受け入れる。
  • 差別のない自由な社会には「寛容さ」が不可欠。

私は差別の問題を考える時、日本人としての限界を感じます。日本人が「差別」という言葉にめっぽう弱いのは、差別という概念が薄いからだと思います。日本人はもともと「違い」を全面的に受入れてしまう性質があり、これが「和」という精神の根幹にあります。

日本は世界でもっとも黒人に対する差別がない国だと言われています。基本的に他の人種への差別もないと思います。どちらかというと日本人は、日本が好きな外国の人が大好きですよね。ですから、海外の人種差別がどのような感情であるかがリアルには分かりづらく、歴史や宗教などから推察することしかできないように感じるのです。

差別の少ない国だからこそ差別という言葉を持ち込みやすく、あらゆる違いを利用して加害者や被害者を生み出し、社会を分断しようとする人がいます。差別について考えるのは難しいですが、自分の中に定義をもつことで、安易に差別や平等という言葉に躍らされないようにしたいものです。

追記:アメリカの暴動について

アメリカでは黒人差別に対する抗議デモが各地で暴動にまで発展しています。
私は一部の平和的な抗議は別にして、激しい暴動は組織化されたテロ行為ではないかと思っています。白人警官に殺された黒人ジョージフロイドさんの弟さんでさえこのような奪略や暴動を伴う活動はやめてほしいと発言しています。

» 参考:「暴力をやめて投票しろ」 ジョージ・フロイドの弟が涙の訴え | Forbes

結局この暴動で精神的にも身体的にも最も被害を受けている人の多くは黒人であり、黒人と白人の分断活動として煽っている組織が裏に存在するのではないかと思います。これは差別を利用したテロリズム、ゲリラ戦争ではないでしょうか。

アメリカは白人が奴隷として黒人を連れてきた非常に暗い過去があり今も差別があるようです。だから定期的にこのような怒りが爆発するのは当然だという意見もあるかもしれません。しかし、本当に人種差別のない社会を作るにはキング牧師が言うように敵意と憎悪に溺れ暴力に頼ることは逆効果でしかないと思います。

アメリカでは黒人が大統領になるくらいなので、差別はかなりなくなってきたと話す人もいます。トランプ大統領になってからも政権の閣僚や主要ポストに黒人の男女が多く起用されています。今では各大学に黒人枠があり、白人より優遇されていることで逆差別になっていると指摘する声すらあります。黒人の立場は弱いから白人より優遇される。黒人の立場は弱いから黒人が白人を殴っても逮捕されない。このような状況を作ってしまうと逆に黒人の弱い立場を固定することになりかねないのではないかと憂慮されます。

日本からリアルな実態はわからないですが、とにかく暴動が大統領選挙と関わりがあることは確実なので、今は選挙が終わるのを待つしかないという心境です。
(了)

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